あきのもみじ

元気でない時ほど吐き出したくなると思うんです

否定の仕方

最近よく時間が空くので

今まで見なかったようなニュース

というよりコラム

よく見るようになりました

夫婦への不満とか

それが上手くいったりいかなかったり

子育ての不安や不満

相手への期待

たくさん見て自分なりに

「それはおかしい、あなたは正しい」

「それは自業自得では?」

などとそれぞれ感想を持っています

ただ、家族の形はそれぞれ、十人十色

それで幸せならば私は何も言うことはありません

 

とあるタイトルが目に入って

フラッシュバックして悲しくなりました

毒親」という文字

「否定しかされずに育った」子ども

 

「否定」の仕方っていろいろあるんです

あからさまに「できない」「やめろ」

と言われればわかりやすいけれど

「これがしたい」に対して

「これ」には一切言及せずに

「あれは?それは?」と言って

「これ」から引き離そうとするのも

私にとっては「否定」でした

 

もちろん捉え方の問題ともとれます

ポジティブに

「このジャンルには他にもこんなに種類があるんだ!」

と捉えて参考にできれば「否定」にはならないのかもしれません

 

私はそこまで大人じゃありませんでした

もちろん、知ってることから知らなかったことまで

多岐にわたって提案してくれる分には

間違いなくありがたかったのかもしれません

 

だけど、あまりやりたいことが見つけられない自分という存在が

「これやりたい」と思えたこと

素直に認めて欲しかったな…って思いました

一言、「頑張って」と言ってもらえたなら

背中を押してもらえたのかな?と今でも思います

だって、いろいろなことを教えてもらった中に

「私がやってみたい」と思ったことが1つもないままで

私の意見はスルーなの?と感じてしまったから

 

「いいね」って共感してもらえないにしても

その中に「私がやってみたいこと」が入っていたなら

少しは違ったのかもしれません

 

わがままなのかもしれませんね…

まだまだ子どものままなのです

1人で生きることはできるのか?

私にはどうも

1人で生きていけるようにしたがる人が

周りには多いです

人は1人生きていけるのか…?

正直なところ私はNOだと思っています

何も金を払ってくれと言ってるわけじゃない

精神的な意味でも1人では無理だろうと

 

モチベーションを上げたままにするのは

1人では難しいことだと思います

ケジメとか切り替えが大事だってわかってますし

実際気持ちの切り替えが得意な人はいますが

そんな人でさえもやっぱり100%では

ないんですよね

 

何度も言葉にして言うんです

得意不得意は誰にだってあるって

1人で全てできて当然の形を作ることが

全く理解できないのになぜだか

「とりあえず1人でやってね?」

という風潮ができあがっています

 

歌の上手い人が伴奏が欲しいと思った時

楽器のできる人がサポートすれば

それでいいじゃないですか?

だけど周りからの意見は

「1人で演奏して歌ってね」

と言っているんですね

もちろんどちらもできる人はおりますよ

だけれども全員がそうではないでしょ

 

だから私はアドバイスが嫌いです

「こうやれば?助けないけど」

という意見になり得るからです

そんなこと本人はとっくにわかっているんです

わかった上で不可能だったんです

1番悔しいのも本人なんです

たまに斬新なアドバイスもあって

参考になることもありますけれど

そんなことは稀なんですよね

あれこれ考え抜いてダメだった意見が

もう一度提案されても…という気持ちです

 

一緒に生きていくって

なぜこんなにも拒まれるんでしょうね?

気分の波

吐き出す場所がほしくて開設したわけです

今まで連投だったのは今思うと本当に

しんどかったなーって感じでした

今はなんとなく落ち着けています

不安もなくはないけどもそれ以上に

安定してるというか安心しています

しばらく空きましたがまだ空くかもしれません

そしてまた戻ってくるかもしれません

「普通」と「一般論」

頭のおかしい親を持つとどうも

会話のキャッチボールができない

発達障害者の親もまた発達障害っていう

例がわりとあるみたいで

つまり周りのフォローが必要な子供には

同じく周りのフォローが必要な大人が

セットでついてくることが多いんですね

 

それ自体は悪くありません

サイコパスほど本当に人間としてのルールが

守られないのであれば仕方ないですが

いろんな思いを抱きつつも

ちゃんとルールを守って生きているので

何も悪くないです

それどころか見えない「空気」に

常に攻撃を受けてつらいと思います

 

発達障害でなくとも人は苦手なこと

誰にでもあると思うんですね

それは自覚をして予防する

忘れっぽいならメモをとるし

朝起きられないなら目覚ましを増やすなど

そうやって生きてると思うんです

ここでダメな親ってのは障害の有無はともかく

ここがダメだ、これができない

などの自覚をして予防しようとしない

「俺は俺自身だから何も悪くない

俺の存在はありのままの俺である!」

みたいな存在です

 

障害のあることは仕方がないです

誰だって生まれつきもしくは事故や病気で

後から持ったりもします

左手が使えないなら右手が経験を積んで

右手がすごく器用になるとか

そうやって誰だってカバーして

生活しているんです

迷惑は絶対にかけてしまうものだけど

なるだけかけないようにって

予防して生きているんですよね

もちろん障害あるんだから仕方ないだろ!

とは本人が言ってはいけない気がしますけど

周りのフォローは本人が努力しているから

理解してくれるものだと思います

少なくとも「自覚」が必要です

なので知らんぷりしてるとか

さらには気づいてすらいないなんて

言語道断なんですよ

何か問題が起きたとして

「もしかしたら」が考えられない人は

親になってはいけないと思います

自信を持つのは大切ですけど間違ってるのに

間違ってるわけがない!とか

矛盾を指摘すると

世間が矛盾だから…とか言うのは論外です

世間の矛盾は理解してるけど

この場合あなたが間違いを正せば

何もおかしくないんですけどね?

と言う状況が多すぎると思いました

 

私は空気が読めません

経験から読める時やフォローできる事が

増えてきましたが基本的には

どうもズレていたりします

自分が変わり者だと自覚もしています

そしてただの自分の存在が認められないから

変わっているという事を大切にして

それがアイデンティティになっています

つまり「一般的」「普通」を求められることは

やんわりと死ねと言われているということです

 

と言えど生きてきた経験から

合理的、一般的に考察ができたり

道徳的な意見を持つこともできます

なので自分の頭でも理解できる「普通」は

いくつかあるんです

ここでいう普通は障害者を悩ませるような

「普通の定義って何?」的な物ではなく

マナーとかの意味で使っています

例えばお葬式に出席したら

大声で騒がないとかそのレベルの話です

まあその程度なら一般的にこうだろうなって

私でさえ気づく事ができる

頭のおかしな親はそこがまず違う

「普通わかると思うけど?」と

言いたくなるようなことがわかっていない

嫌いなので大げさに辛辣に言います

嫌いじゃない人ならそんな皮肉言いませんし

まずイラつきすらしません

人が違うので知ってる知らないは違いますし

そこは理解してます

そして相手もこちらも「普通」を

押し付けたりもしないのです 

なぜこんなに親が嫌いで

だからこそ大げさに皮肉るのかというと

そのレベルのマナー的なことは全く

気が付きもしないのに

「一般論だから、普通だから」と私に押し付け

または私のことを「普通だと思う、普通になれ」

などと言うからです

 

憎しみがフィルターになって

大げさにイラッとしてしまいますが

わかりもしないのに他人に押し付けるのは

やめて欲しくて大嫌いなんですね

そしてアイデンティティを理解しない

ストレートではないにしろ

アイデンティティを無くすことはつまり

死ねと言ってることと同じです

私は私の「性質」を大切にしたいと考えます

見えない

人は目で見て確信に変わるなんてことは

日常茶飯事だとは思いますが

見えない部分に潜む何かがあることも

わかってほしいこの頃です

例えば待ち合わせになかなか来ないから

電話をかけたとして

表面上は遅れてるから電話した…ですけど

見えないところでとてつもない不安と戦っていて

それをなんとか乗り切った後今があるとしても

その不安は見えてないわけです

だけどここで想像のできる人は

もしかしたら心配させたかもしれない

…と考えることができる人もいます

 

見えていることが全てではありません

何か見てわかる身体障害がある人は

見てわかるので何が苦手かなども

想像しやすいかもしれません

しかし見えない障害はあります

身体障害でも例えば盲目や難聴

ぱっと見わからない人は多いです

内部障害、これは完全に見た目じゃわかりません

発達障害精神障害

これもわかりづらいです

 

何かに努力をしたし継続もしているが

改善がされない時

1番苦しいのは本人なんですよね

そして努力はしているが改善が見られない

やめる気はないけど正直つらい

弱音を漏らしたとして

足りないとか怠けてるとか嘘だとか

言える立場にありますか?

もちろんやりたくなくて文句を言う人は

いるとは思いますけども

本当に頑張っているのにできない時

1番苦しいのは誰ですか?

そしてそれで長年ずっと悩み続けて

つらい思いをしているのは本人です

 

他人にはわからないですけど

今までこんなことを考えて

こんなことをやってみて

こんな風に工夫してみて

とりあえず諦めずに続けてみて…

 

できないはずがないなんて断言できないです

できないことだってあるんです

今まで苦しんできた本人が

理由も可能もやっと吐き出せて

どうしてあり得ないと言えるのか

今一度見えない何かを想像してみる

力を養うべきかもしれません

親のようになりたくないので

アフィリエイト

ブログなんて私は基本的には

ファンとかもないし

ブログを読むときは

知りたいこと検索したら出てくるような

だから多分アフィリエイトなんだろうなって

思われる物くらいしか読まないんですが

それは読ませようと書いてる内容や

知りたいであろう情報、タイトル

そういう書き方していてかつ

検索上位に引っかかるような設定を

してらっしゃるんだと思います

 

ブログなんてほとんどアフィリエイトだろ

って思ってかかるんですけど

じゃあ私の場合は…?

と問われるとただの愚痴吐いてるだけの

日記のような物です

…たぶん最初にブログが流行りだした時

そんな感覚だったんだと思います

ブログ時代が終わってSNSが流行り

ブログはそれだけのコンテンツだったのに対し

SNSは登録すればいろんな機能が使えて

友達と繋がれば友達の新着がわかるように出て

使いやすかったりしたわけです

…となるとブログのほとんどがもう

アフィリエイトで残っているのかな…?って

 

ところでなんですけど

当然アクセス少ないのはそうなんですが

誰かしら見てるんですよね

読んでるかどうかは別として

一体何に引っかかって

私のブログはアクセスされているのでしょう

好奇心です

店舗による

銀行って…店舗にもよるのかもしれないけど

やっぱり対応が違うんですね

態度が悪いとかそういう類ではなくてですね

 

10年前くらいに作ったけど使わなかった口座

そのうちキャッシュカードは紛失するし

ハンコも恐らく今はもうなくなっていて

住所も変わり開設時に入れたお金は

今まだ入っているのかすらもわからない

今後使う予定も今のところないので

潔く整理しようと思いました

 

1つ目某銀行ではわりとすんなりと

ではこうしましょうと言う提案があり

こちらの意見が前向きで

「できる」スタンスだった

もちろんずっと使われていなかったので

どうやらよく使う口座と区別して

奥の方に保管されていたらしく

普通にやるより時間がかかると言われました

仕方ありませんな

 

そして2つ目の某銀行では

どちらかというとその状態だと

今日中には難しいかもという

「できない」スタンスでした

 

結局どちらも当日中には終われましたし

対応もとても丁寧で

空気が読めず素っ頓狂な質問を

してしまったり作業を邪魔してしまったり

する私に憤慨するでもなく

落ち着いた対応をしていただけました

会社による店舗による人による

いろいろな属性がかけ合わさっていますが

対応の種類って変わるもんですね

十人十色ってやつですね